松島城跡ー備中高松城水攻めー
松島城跡は、羽柴秀吉による備中高松城水攻め時における毛利軍「境目七城」の一つで、備中高松城からは最も遠い所にある。その為、羽柴秀吉による備中高松城水攻めの時は、秀吉軍に攻撃される事無く、織田方と毛利方の和睦となった。
現在、川崎医療短期大学の敷地となっているあたりが松島城跡とされている。
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川崎医療短期大学と川崎医科大学付属病院の建設されている敷地及びその西、両児神社がある最頂部まで含めて松島と呼ばれていたようであるが、松島城主要部があったのは、川崎医療短期大学の敷地、別名射越山とも呼ばれていた丘の上のようである。
射越山
松島城主要部があった所で現在は川崎医科大学付属病院の東側に位置する川崎医療短期大学の敷地内となっており一般の人は立ち入ることが出来ない。松島城は付近の丘陵上に広がっていたようであるが城主要部のあったこの丘陵は別名射越山とも呼ばれていた。
ここ両児(ふたご)神社は、約1,800年前、神功皇后が三韓征伐の帰り、戦勝と、筑前国譽田の宮にて誕生した二歳の皇子の安泰を祈願された二子の宮ー当時は高鳥居山(ここから数キロ北)に鎮座ーを約1,200年前称徳天皇の時代に遷座した神社。
松島城は、川崎医科大学付属病院の向こうに見える川崎医療短期大学のある射越山に城の中心部があり手前の両児神社が鎮座する丘陵辺りまで広がっていた様子。
左が川崎医科大学付属病院のある松島。右が川崎医療短期大学のある射越山。最も左側に両児神社が鎮座する丘陵がわずかに見える。