羽柴軍配置状況ー備中高松城水攻めー

羽柴秀吉本陣跡

羽柴秀吉本陣跡

羽柴秀吉軍の備中高松城水攻めの際、毛利・羽柴両軍は足守川を挟んで向き合った。羽柴秀吉軍の配置は、鍛冶山城、冠山城、加藤清正陣、津田与左衛門陣、宇喜多忠家陣、羽柴秀勝陣、仙石権兵衛陣、羽柴秀吉本陣、堀尾茂助陣、羽柴秀長陣、花房助兵衛陣、加茂城、日幡城などである。

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鍛冶山城跡

鍛冶山城跡

鍛冶山城跡

備中鍛冶山城は高松城水攻めの際、毛利氏の最前線「境目七城」の一つ宮路山城とは足守川を挟んで対岸にある城で、宇喜多氏側の延原(信原)氏が城主であったといわれている。当時宇喜多氏は織田方に寝返っており織田軍の最前線の城であったことになる。

冠山城跡

冠山城跡

冠山城跡

冠山城は羽柴秀吉の備中高松城水攻め時、毛利軍の「境目七城」の一つであった。時の城主は、林三郎左衛門重真、妻は清水宗治の娘。NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」では、この冠山城攻めが官兵衛の長男「黒田長政」の初陣であったと放送された。

加藤清正陣跡ー報恩寺山ー

加藤清正陣跡ー報恩寺山ー

加藤清正陣跡

備中高松城水攻め時、生石神社のある報恩寺山に加藤清正が陣を構えた。西脇には足守川が流れている。水攻めにあたり川向こうに400m程の副堤を築き、陣前付近を水攻めの水取り口とし足守川を閉鎖、備中高松城を孤立させた。

津田与左衛門陣跡

津田与左衛門陣跡

津田与左衛門陣跡

津田与左衛門陣跡は加藤清正陣と宇喜多忠家陣の間にある。今は陣の南端部をかすめてJR吉備線が走っている。

宇喜多忠家陣跡ー備中高松城跡よりー

宇喜多忠家陣跡ー備中高松城跡よりー

宇喜多忠家陣

備中高松城水攻めの際、織田方に付いた宇喜多秀家の叔父、宇喜多忠家(直家の弟)が陣を張った八幡山。現在は、八幡神社が鎮座している。備中高松城跡や羽柴秀吉陣跡方面の眺望に優れている。

羽柴秀勝陣跡

羽柴秀勝陣跡

羽柴秀勝陣跡

岡之鼻という小さな丘の上に立てた羽柴秀勝の陣。秀勝は織田信長の四男で羽柴秀吉の養子となっていた。この高松城水攻めは、羽柴秀勝にとっての初陣。天正10(1582)年10月15日には、大徳寺において喪主となって実父信長の葬儀を行っている。

 仙石権兵衛陣跡

仙石権兵衛陣跡

仙石権兵衛陣跡

羽柴秀吉の備中高松城水攻めにおいて、後に信濃小諸藩の藩主となる仙石権兵衛秀久陣跡は、羽柴秀吉本陣の石井山の麓近く、堀尾茂助の陣の北側に構えている。上の写真では、正面右中央に見える団地付近がその陣跡ではないかと言われている。

羽柴秀吉本陣跡

羽柴秀吉本陣跡

羽柴秀吉本陣跡

羽柴秀吉が高松城水攻めをするにあたり本陣を構えた場所で当時の石井山持寶院境内跡である。天正10(1582)年6月4日、講和の条件として自刃した清水宗治公の首級は、この本陣に於いて、秀吉の首実検の後手厚く葬られ五輪塔が建立されたといわれている。

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堀尾茂助陣跡

堀尾茂助陣跡

堀尾茂助陣跡

御崎神社は、旧立田村の村社で、祭神は「吉備武彦(きびたけひこ)の命」、創建は弘治年間(1555~1558)。天正10年(1582年)高松の役のとき、この御崎神社は、秀吉配下の掘尾茂助の陣となった。

羽柴秀長陣所跡ー皷山ー

羽柴秀長陣所跡ー皷山ー

羽柴秀長陣所跡

羽柴秀吉の弟秀長が陣を張った所ー高松城水攻関連史跡・皷山陣所跡・つづみ山城跡(海抜118m)ー天正10(1582)年4月 織田信長の命により備中へ進攻した秀吉の左翼をかためる弟・羽柴秀長が山陽道からの毛利軍に対して布陣した所である。

花房助兵衛陣跡-2ー備中高松城水攻めー

花房助兵衛陣跡-2ー備中高松城水攻めー

花房助兵衛陣跡

備中高松城水攻めで秀吉軍として活躍した花房助兵衛の陣跡(城跡)を探したが、案内図に詳細な表示が無かった為容易に見つけることが出来なかった。ここは、丁度歩いてこられた近くにお住まいの方にお聞きして探し当てた所。

加茂城跡

加茂城跡

加茂城跡

加茂城は天正10(1582)年の羽柴秀吉の備中攻略ー備中高松城水攻めーに際し毛利方が備中南東部の国境沿いに備えた「境目七城」のひとつで、桂広繁・上山元忠・生石治家が立て籠りましたが、秀吉軍の攻撃にあって城中で内紛が起き、ついに落城したと伝えられます。

日幡城跡-2ー高松城水攻めー

日幡城跡-2ー高松城水攻めー

日幡城跡

日幡城は、羽柴秀吉の備中高松城水攻めの際、中国地方の雄毛利氏が織田軍との戦いに備え整備した防衛ライン「備中七城」(庭瀬城・松島城・日幡城・加茂城・高松城・冠山城・宮路山城)の一つ。

最上稲荷 一の丸

最上稲荷 一の丸

最上稲荷 一の丸

一の丸は、備中高松城水攻めの戦いで羽柴秀吉が最初に陣を構えた地。天正10年(1582年)4月、毛利軍の東の守り「備中七城」を攻めるため備中高松稲荷のある龍王山に本陣を構え砦を築く。秀吉が軍議を行った古跡。

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