備前福岡の街並み
福岡の市 中世中国筋の南部として栄えた、福岡千軒は、現在も整然とした、家並みにその面影を残している。この福岡の周辺には、八日市、一日市と言う地名も残っている。町内の妙興寺境内には、後の岡山城主、宇喜多直家の父興家の墓や軍師黒田官兵衛の先祖のものと伝わる墓がある。
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室町時代、播磨の国主・赤松則興の追善供養の為に日伝上人によって創建。境内の墓地には、初代岡山城主・宇喜多直家の父・興家及び豊臣秀吉の軍師・黒田官兵衛孝高の曽祖父・高政と祖父・重隆の墓塔がある。
明治末期から大正へかけて10年余りの歳月をかけて建てられた格調の高い県内屈指の建造物。一見純和風の邸宅に見えるが、大黒柱をあえて設けない、ガラスを多用するなど、随所に進取の建築様式も見られる。
福岡の市は、鎌倉時代福岡庄のなかで開かれていた定期市のひとつであったと推定されている。現在でも一日市や八日市などの地名が残っており、日によって定期的に市が開かれていたと考えられる。
名称 | 備前福岡の街並みー備前福岡の市ー |
所在地 | 瀬戸内市長船町福岡 |
TEL | 0869-22-3953 瀬戸内市観光協会長船支部 |
七つ井戸 | 「備前福岡名所町、七口、七井戸、七小路」と、言い伝えられて来たように、ここ福岡 には昔から、飲用、消火用、その他生活用水を得るため、個人井戸の他に、その周辺の 人々によって管理使用されていた立派な共同井戸があった。 明治5年の地租改正の時に、七つの共同井戸の敷地が、村総持ちの土地として台帳に これらの井戸が、いつごろ作られたかは不明であるが、江戸時代中ごろには既に使われて 吉井川の地下水のため、井戸水は涸れることなく、水質は極めてよく、大正の末ごろ 七つ井戸は、村人にとっては、情報交換、社交の場として楽しい所であったが、打ち抜き 現在、七つのうち四つの井戸が昔の姿のまま残っている。 平成5年12月 備前福岡史跡保存会(現地案内板) |
交通 | JR赤穂線長船駅より徒歩約15分、
山陽自動車道山陽ICより車で約20分 |
駐車場 | 妙興寺北、仲崎邸横駐車場 |
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備前福岡史跡保存会が中心に運営の手づくり郷土館で、中世山陽道随一の町として栄えた備前福岡の歴史に関する説明、平井家(医師)所有の医学書、医療器具等及び福岡の明治・大正時代の古い写真などを展示。
吉井川河川敷にある標高10mの粘坂岩からなる小丘で、14世紀初頭築城された福岡城本丸跡といわれている。刀剣、須恵器の産地として、吉井川に沿った市場として町が形成され、備前の国の中心として栄えた。
「福岡一文字派」は、日本刀の原形として一世を風靡、則宗、吉家、吉房等、御物、国宝、重要美術刀剣、重要刀剣となっているものが多い旨刻まれ、優れた刀匠達がこの地で競いあっていたことを今に伝えている。
このお地蔵様は、 通称、旦過(たんか)のお地蔵さんと呼ばれ、薬王寺の境内の鬼門(きもん、鬼が出入りするという東北の方角)にあたる方角に、魔よけとして建てられたのが始まりと伝えられている。
薬王寺は、報恩大師ゆかりの備前48ヶ寺の一つ。平安・鎌倉から室町時代にかけては、五反余の寺域に、三院、六堂が建ち並ぶ大寺院で、日常多数の参拝者でたいへんなにぎわいであったと伝えられている。
妙見菩薩は、北斗七星又は北極星を神格化したものとされている。災害を除き土地を守り、人々の幸福と寿命と武運を増す菩薩であり、海上安全の神、商売の神、眼病平癒の神として信仰を集めてきた。
旧家の蔵から発見されただんじりの端木の裏に「文政4年」の年号や「大工佐助上組」が書かれている。また、下組のだんじりには「文政2年」と書かれている。これらのことから製作年代は、文政の頃と考えられる。
摩利支天は、インドの神様で、陽炎を神格化したもので、三面、六臂(ロッピ)、ないしは、八臂(ハッピ)の天女の姿で表され、猪の背に乗っているのが特色といわれている。
旧堤防わきにあったが、戦後の堤防改修のときここへ移したもの。昔は、牛は農家の貴重な労働力で、各戸に和牛を飼い家族の一員のように大切に育てていたので、牛の安全な生育を願って牛神様の信仰が生まれた。