岡山城 本丸 本段(上の段)

岡山城 本丸 本段ー天守閣よりー

岡山城 本丸 本段ー天守閣よりー

岡山城 本丸 本段(上の段)は、岡山城本丸で最も高いところにあり、北端に天守閣が、中央付近に城主の私的な生活に必要な建物である御殿を有していた。本段の御殿へは一般の藩士の出入りは厳しく禁止されており、藩主は廊下門などの渡り廊下を、御殿勤めの者は六十一雁木門を使用していた。

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本段に関係した主な建物
天守閣(再建)、塩蔵(再建)、本段御殿ー南から玄関・台所・藩主御座所・長局(御殿勤めの女中部屋)・側室住居(側室たちの居住空間)ー、六十一雁木上門ー別名要害門ー(再建)・六十一雁木下門(櫓門)、干飯櫓(ほしいいやぐら)、三階櫓長屋続(つづき)櫓、不明(あかずの)門(再建)、廊下門(再建)など

岡山城 本丸 本段 パノラマ

岡山城 本丸 本段 パノラマ

岡山城 天守閣

岡山城 天守閣

岡山城 天守閣

岡山城の天守閣は、本格的な城づくりのスタートとされる織田信長の築いた安土城にならって作られた日本を代表する城郭建築で、天守閣の基壇(天守台)が、北(後楽園方向)に大きく突き出した、不等辺五角形という全国に全く例のない珍しい形をしている。

不明門 正面

不明門 正面

不明門

岡山城 不明門(あかずのもん)は、岡山城本丸、中の段ー表書院(藩庁)ーから最上段にある藩主の日常生活を営む御殿(住居)に上る正門であったが、特に限られた身分の人しか通ることができなかった。普段は門扉が閉ざされていたことから不明門と呼ばれていた。

廊下門ー下の段よりー

廊下門ー下の段よりー

廊下門

岡山城の廊下門は、上屋が本段(住居)と中の段表書院(藩庁)とを結ぶ城主の通路として使われたためこう呼ばれた。城主は、誰とも顔を合わせることなく私邸から公邸へ移動することが出来たということである。昭和41年に、鉄筋コンクリートで再建された。

六十一雁木上門 正面

六十一雁木上門 正面

六十一雁木上門

六十一雁木上門は、岡山城本丸の内、天守閣や城主の住まいである御殿のある、本段から直接旭川側の下の段に通じる門で、前方の石段がもとは61段あったことからこの名がついたと考えられている。現在は無いが石段下の下の段には、六十一雁木下門があった。

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本丸 本段ー不明門上よりー

本丸 本段ー不明門上よりー

岡山城 本丸 本段ー天守閣前よりー

岡山城 本丸 本段ー天守閣前よりー

岡山城 塩蔵

岡山城 塩蔵

岡山城 塩蔵

塩蔵は、1階は塩などを貯蔵する倉庫として使用すると共に、空襲による焼失前までは天守閣への入り口としての役割も果たしており、塩蔵の南側入口を入った所に直接塩蔵の2階に上がる階段があり、塩蔵2階から漆喰塗りの丈夫な両開きの土戸を介して天守閣の1階へ通じていた。

岡山城 塩蔵下の石垣

岡山城 塩蔵下の石垣

岡山城 塩蔵下の石垣

この岡山城 塩蔵下の石垣は、背後の高石垣がせり出してきたため、補強の目的で元禄年間(1688年~1703年)に築かれた。丁寧に面を整えた割石を横積みにして、最上段の石材は隅を丸く加工しているのが特徴である。

岡山城 天守台の石垣

岡山城 天守台の石垣

岡山城 天守台の石垣

岡山城 天守台の石垣は、宇喜多秀家が慶長2年(1597年)までに築いた石垣で、加工を施さない自然石を用い、高さは14.9mである。この位置は、岡山のもとの崖面に当たり、石垣の背後はその堅い地山に持たせている。

不明門下の石垣

不明門下の石垣

岡山城 不明門下の石垣

この不明門下石垣の右隅は宇喜多秀家期の石垣に被せて造られており、関ヶ原合戦後の小早川秀秋期か前池田期に築かれたものとみられる。上部は不明門を建てた時に積み足され、中ほどの一部は天保9年(1838年)に崩れて修理を受けている。

六十一雁木下門跡

六十一雁木下門跡

六十一雁木下門跡

岡山城 六十一雁木下門は、本丸 下の段から直接本丸 本段(上の段)に通じる石段の下に建っていた。前方に見える門は、六十一雁木上門(別名 要害門)で門を開けるとすでに本段となっており、本段御殿に勤める者の通用口として使われていた。

六十一雁木門横の石塁

六十一雁木門横の石塁

六十一雁木門横の石塁

岡山城 六十一雁木門横の石塁は、関ヶ原合戦後の池田氏が下の段を大がかりに整備した時に築かれた石塁である。板状の大石を立てて組み込んだ部分が特徴的である。石塁の先の上端から本段石垣の中位に櫓門が架けられていた。

長屋続櫓跡

長屋続櫓跡

長屋続櫓跡

長屋続櫓は、岡山城 不明門から石段を登った正面奥、上の段(本段)の旭川に面した石垣上に建てられていた。説明版が無くこの櫓に関した記述も見当たらない為詳細は不明であるが、続櫓という名前から考えて、多門櫓の一種であったのではないかと想像される。

本段東側の高石垣

本段東側の高石垣

本段東側の高石垣

この岡山城 本段(上の段)東側の高石垣では、宇喜多秀家が築いていた石垣の隅角部に、小早川秀秋が石垣を継ぎ足して直線状(平面状)に改修した跡が観察できる。秀家は安定性の高い大形の石材をきちっと積んでいる(向かって左側)のに対し、秀秋は丸みの強い石材を粗雑に積んでいる。

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岡山城 干飯櫓跡

岡山城 干飯櫓跡

岡山城 干飯櫓跡

岡山城 本丸 本段(上の段)南東面に建つ干飯櫓は、横長の入母屋造の上に望楼を乗せた古式な二重櫓で、正面の大きな唐破風と出窓格子に特色がある。

岡山城 本段南東の高石垣

岡山城 本段南東の高石垣

岡山城 本段南東の高石垣

宇喜多秀家が慶長2年(1597年)までに築いた石垣で、加工を施さない自然石を用いている。隅角は岩盤の高まりに載っているが、西寄りでは石垣の基底が3m近くも埋まっていて、本来の高さは15.6mもある。関ヶ原合戦以前の石垣としては全国屈指の高さである。

三階櫓跡

三階櫓跡

三階櫓跡

三階櫓は、岡山城 本丸 本段(上の段)で最も南に位置していた三層四階の大型の櫓で、三階櫓の東側には干飯櫓が並んで建っていた。

金鯱瓦と後楽園

金鯱瓦と後楽園

岡山城の金鯱瓦

岡山城の金鯱瓦は、天守が昭和41年(1966年)に再建された時に制作取り付けられ、平成9年(1997年)に築城400年で改修された時に金箔が張られた。

岡山城 本段模型の写真ー岡山市デジタルミュージアム所蔵 現地案内板ー

岡山城 本段模型の写真ー岡山市デジタルミュージアム所蔵 現地案内板ー

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