佐々木盛綱像ー源平藤戸合戦ー
藤戸寺の眼下に、倉敷川に架かる盛綱橋が見える。この辺りはかっては海で、児島に陣取る平氏を攻めるのに、源氏の武将佐々木盛綱は、漁夫から浅瀬の場所を聞き、騎馬で藤戸海峡を渡って先陣をとげた。その時の雄姿を銅像にし架橋記念としている。
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名称 | 佐々木盛綱像ー源平藤戸合戦ー |
所在地 | 倉敷市藤戸町藤戸 盛綱橋上 |
TEL | ー |
概要 | 佐々木盛綱(ささきもりつな) 仁平1年(1151~?)、
平安時代末期に活躍した源氏の有力な武将。 治承4年(1180)、源頼朝が平氏打倒をかかげ挙兵するとこれに参加。 寿永3年(1184)の藤戸合戦で、当時は島であった児島に陣取る平氏を攻めるのに、地元の漁夫 この功により、児島に領地を与えられ、一族が土着したという。 浅瀬の場所を教えた漁夫を口封じのために殺害したと伝えられ、これが後世に謡曲「藤戸」 地元には、盛綱が馬で乗り入れた場所という「乗り出し岩」、漁夫の母が憎しみのあまり笹 |
盛綱橋 | 今見る藤戸・天城の山丘はかっては藤戸海峡に浮かぶ島であった。
その後、次第に開発されかって海の姿は消え、僅かに南北に流れる倉敷川が藤戸海峡の この橋の上流一帯が「平家物語」や謡曲「藤戸」で知られている、源氏の武将「佐々木盛綱」 江戸時代、寛永16年(1639)岡山藩家老「池田由成」が天城に居館を築き、士屋敷を中心に また、倉敷川にかかる藤戸大橋の周辺は、川湊として近隣農村部の物資の集散地となり、おおいににぎわった。 交通機関の発達と道路網の整備に伴い、藤戸大橋の架け替えが必要となり、大正14年 多くの橋名の案が出されたが「佐々木盛綱」、藤戸渡海先陣のいわれにちなみ、時の県知事 多くの人々になじみ、親しまれ、風雪に耐えた「盛綱橋」も老朽化し、昭和の時代が終わる 平成元年総工費1億円を懸け二代目「盛綱橋」の誕生を見たのである。 歴史の流れを伝えんとして、橋上に800年の昔、馬上姿で藤戸海峡を波きって渡る |
交通 | JR山陽本線倉敷駅より車約20分または児島方面行バス20分藤戸下車、
瀬戸中央自動車道水島IC下車車約10分 |
駐車場 | 無し(但し、藤戸寺に参拝する場合には、門前に各5台程のものが三ヶ所あり) |