岡山県内の観光・旅行・県内へ移住希望の方-ご参考サイト!-岡山再発見の旅-
  • 瀬戸内海 from 八丈岩

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岡山再発見の旅

このサイトは、岡山大好きな私が岡山再発見の旅をしながらの記録です。
岡山を観光やぶらり旅で、またそんなに良い所なら移住を検討しようかと思って訪れる方々のご参考になれば幸いです。その地を良く知るには?ーキャンプの旅も一法ー

岡山県は、瀬戸内地方の中央に位置し、南北を四国山地と中国山地に挟まれ、東西は九州の山々や紀伊半島の山々で遮られている為、「晴れの国おかやま」で代表されるように台風や積雪、雨も少なく気候も温暖で果物をはじめ新鮮な農水産物にも恵まれています。

瀬戸内地方の気候の穏やかさは、天気予報で瀬戸内海の波の高さが通常時で、0.5mと太平洋や日本海の通常時の1.5m~2mに比べて格段に低く予報されているとからも容易に理解できます。

また、県内には、高梁川、旭川、吉井川の三大河川が均衡よく流れ、大きな活断層もなく、南部の干拓地を除くと地盤も固く地震に強いと言われている地域が多くあります。

このようなことから、古くは吉備の国として大和政権にも匹敵する強い国として栄えましたが、余りにも強大であったため、それを恐れた時の為政者により、「備前」(岡山県南東部)、「備中」(岡山県西部)、「備後」(広島県東部)、「美作」(岡山県北部)の四つに分断されたと言われています。

それにもかかわらずその後も持続的な発展を続けてきました。

それは、「備前焼」「もも」や「マスカット」「ももたろうぶどう」「名刀長船」「ジーンズ」「帆布」「マスキングテープ」「大原美術館」「水島臨海工業地帯」など数々の素晴しい特産物や文化・産業を創りあげてくるなど先人~今の人たちの努力も勿論。

上記のような気象、地理的な条件と位置的にも東西南北の交通の要衝であるという理由も大きく関わっているのではないでしょうか?

このサイトでは、旅をしながら、そのような岡山発展の謎解きもしていきたいと思っております。

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旅日記

亀山城跡

別名沼城ともいう。湿田の中に島状に並ぶ二つの丘陵に築造された連郭・輪郭式折衷の山城。城郭遺構が丘陵全体に残っている。宇喜多直家が永禄2(1559)年に主君浦上宗景よりこの城を賜り、新庄山城より移って以来天正元年(1573 …

亀山城跡

岡山孤児院発祥の地

100年余り前、今の岡山市門田屋敷に最大1,200人の孤児を収容していた民間施設「岡山孤児院」があった。創立者で、運営のリーダーが石井十次だった。十次は、22歳の時、ここの大師堂で兄妹2人の子連れの旅の母親から一人の男児を預かって以来、48歳で世を去るまで、孤児の救済と教育に人生をささげた。

大師堂

安仁神社

備前地域では最古の記録を持つ神社で、元は宮城山にあり、主祭神として五瀬命を祭る。社名の「安仁」は、神武天皇の「兄」を仮名書きしとことに由来すると言われている。現社地には、江戸時代前期に岡山藩主・池田綱政によって移され、現社殿は明治18(1885)年に改築されたものである。

安仁神社拝殿

乙子城跡

宇喜多直家が乙子山に構えた連郭式の小型山城。後に備前、美作一帯を統一した直家の最初の居城で、「国とり」はじまりの地といえる。乙子城は、当時の吉井川河口付近に位置し、邑久郡の穀倉地帯である千町平野の南側を画する山々の西端にある乙子山山頂にあった。

乙子城跡ー北側よりー

大廻小廻山城跡

大廻小廻山城跡は、総社市の鬼ノ城と同時期、663年の白村江の戦いなど、東アジア情勢が緊迫した7世紀頃に築造されたと推定されている。発掘調査の結果、列石と版築盛土からなる土塁を3.2kmに渡って周囲に巡らせており、土塁が谷部を渡る3箇所には石積みの防塁を伴った水門が造られている。

小廻山ー草ヶ部大池よりー
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