沖田神社

沖田神社
岡山藩主池田綱政の命により、備前国南部の沖新田全体の産土神として勧請、鎮座。沖新田は、池田綱政の命で、津田永忠の指揮の下、干拓によりできたものであるが、潮止め工事が難航したため、「きた」という女性が人柱となって龍神に身を捧げたという伝説が伝えられている。
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- 拝殿
- 拝殿・釣殿・幣殿・本殿
- 本殿
名称 | 沖田神社 |
所在地 | 〒702-8001 岡山市中区沖元411 |
TEL | 086-277-0196 |
祭神 | 天照大御神、素戔嗚尊、軻遇槌命、倉稲魂命、句句廼智命、おきた姫 |
歴史 | 元禄5(1692)年正月11日、津田永忠が、岡山藩主池田綱政の命により、沖新田の 干拓に着手。 短期間で潮留め・築堤・疎水・検地を終えて、約2,000町歩の新田を干拓。 元禄7(1694)年4月、岡山藩主池田綱政の命により、備前国南部の沖新田全体 元禄7(1694)年9月3日、沖元宮地(古宮)に遷宮。 宝永6(1709)年現在の沖田神社の地に遷宮 明治の廃藩置県後、郷社となり、大正12年5月25日に県社に昇格。(岡山県神社庁資料参考) |
末社 | 道通宮、稲荷神社、おきた姫神社、五社様、胸形神社、 |
交通 | JR岡山駅より両備バス沖元経由西大寺行、沖元下車徒歩約3分
山陽自動車道岡山ICより車で約35分 |
駐車場 | 有り |
沖田神社の末社の一つ。天正10年、備中高松城水攻めの際、城主清水宗治の次男、長九郎が道通宮に祈願したところ、一匹の白蛇に守り導かれて西大島の御滝山に逃れることができたことに始まるとされる。
岡山藩主 池田光政、綱政の2代に仕え、沖新田など新田の干拓、百間川放水路の開削、倉安川の開削、池田家の菩提寺、曹源寺の建立、後楽園の造営など岡山藩基礎となる各種事業を手がけ完成させる。岡山藩郡代。
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元禄5年、津田永忠が、岡山藩主池田綱政の命により、沖新田の干拓を行った際、干拓した沖新田全体の産土神として沖田神社を最初に勧請したのがここ御野郡の住吉宮。その後直ぐに沖元の宮地に、次いで現在の沖元に遷宮されている。
元禄5年、津田永忠が沖新田の干拓を行った際、沖田神社を元禄7年5月、御野郡の住吉宮に勧請。同じ年の9月、ここ沖元の宮地に遷宮。しかし、ここは土地が低く冠水するなどの問題があったため15年後に現在の沖田神社の地に遷宮した。
- 五社様
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- 願い石
- 沖田宮