城下町高梁ー高梁市高梁地区ー
市中央部を清流高梁川が南北に流れ、南部で西方より流下してきた成羽川を合流している。市域は、高梁川沿いの市街地(標高50-100m)と高梁川をはさんで東西に広がる吉備高原地域(標高300-500m)からなっている。
Google Mapー高梁市観光案内地図ー
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「臥牛山」の山頂近く標高430m付近に位置すし、現存する山城としては全国で最も高いところにあることで有名。天守、二重櫓・土塀の一部を始め山中に残る数々の城跡が国の文化財や史跡に指定されている。
備中松山城の外堀とされた紺屋川右岸、三の丸にある旧武家屋敷。城下町の町割りがそのまま残っており江戸時代の面影をそのまま留めている。寅さんシリーズ第32作で博の実家のある町としてロケの一つとなった。
高梁の紺屋川の両岸には二つの町並みがある。一つは武家屋敷のある石火矢町。もう一つは紺屋川下流両岸に広がる本町、鍛治町など町人の町並み。平入り二階の天井が低い二階建てで格子窓など町家の特徴が。
名称 | 城下町高梁ー高梁市高梁地区ー |
所在地 | 〒716-8501 高梁市松原通2043 |
TEL | 0866-21-0200 |
概要 | 鎌倉時代の延応2年(1240)に、秋庭三郎重信が、市の中心にそびえる臥牛山、大松山 山頂に城を築いて以来、明治に至るまで630年の間、城下町として、また、物資の集積地 として栄えてきた。臥牛山や備中松山城などの史跡とともに、JR備中高梁駅の北部、紺屋川周辺地域や石火矢 ふるさと村には城下町ならではの情緒あふれる古い町並みもよく残されている。 |
主な見所 | 備中松山城、本町・鍛治町の町並み、石火矢町ふるさと村、紺屋川美観地区、頼久寺、 薬師院、松連寺、定林寺、道源寺、寿覚院、巨福寺、龍徳院、高瀬舟、 手打ちそば「つくしんぼ」、高梁市図書館、城下町高梁・観光駐車場ー |
交通 | JR伯備線備中高梁駅より徒歩約15分、
岡山自動車道賀陽ICより車約20分 |
駐車場 | 普通車15台、バスも可能(高梁市観光駐車場) |
高梁川の支流紺屋川は、かっては備中松山城の外堀で川の右岸、城側は三の丸である。上流、山手方面には中之町や石火矢町などの武家屋敷が、下流、高梁川方面には御用商人の多かった本町と新町がある。
江戸時代初期に、若き日の小堀遠州が作った庭(国指定名勝)で広く知られている禅寺。小堀遠州は、慶長9(1604)年小堀新助正次の後を継いで備中の代官となり、この頼久寺を仮の館として政務にあたった。
桃山時代の建築手法を良く残した本堂(薬師堂)が良く知られている。「男はつらいよ」シリーズのロケ地となった。正面にある石段を歩くと寅さんや住職の娘朋子(竹下景子)に会えそうな錯覚に陥る。
本堂の右側にある観音堂の格天井は、文禄の役時に総大将宇喜多秀家の御座船に使用されていたもので、船戸2枚とともに岡山県指定重要文化財に指定させている。境内には清水比庵(ひあん)の歌碑がある。
玉叟山定林寺は8代水谷勝隆公の時、寛永16(1639)年備中成羽へ移封となり、次いで寛永19(1642)年備中松山城主となった。これを機会に翌寛永20(1643)年、下館にあった定林寺をこの地高梁に移した。
境内には、鳥羽伏見の戦いで幕府側に付いた藩主板倉勝静の親衛隊長として活躍するも、慶応4(1868)年玉島の柚木家で自刃し、幕末の戦火から玉島を救った松山藩家老の熊田恰(あたか)の墓がある。
曹洞宗の龍徳院同様、浄土宗の寿覚院も、山崎家家治公の天草移封に従わなかった一部家臣達が寺とともにこの地に移り建立したもの。歴代藩主の尊崇あつく水谷、安藤、石川、板倉と歴代家臣の墓が多くある。
城下町の東側の山裾に寺町が形成されているが、その中の一角を占めるのがこの巨福寺。江戸初期作庭の枯山水の庭、松山藩主の家老宅にあった門を移築した山門、樹齢400年といわれる名松鳳凰の松などがある。
成羽城主山崎氏の菩提寺として成羽に作られたが、山崎氏が天草に移封する時に、従わなかった家臣たちが移築した。寺の名は、山崎家治公の祖父堅家の法名龍徳院を執っている。
高梁市観光駐車場の横に展示してある高瀬舟。高瀬舟は、江戸時代から大正時代にかけて、岡山県の三大河川(高梁川・旭川・吉井川)での水運による南北交通の主役として活躍した。
国道180号線沿いの高梁市営駐車場へ車を置いて、武家屋敷や庭園で有名な頼久寺へ行く途中の紺屋川美観地区入口近くにある。てんぷらや手打ちそば、定食などをリーズナブルな価格で提供する食事処。
高梁は、第二次世界大戦による戦災を受けておらず、美しい城下町の街並みがそのまま残っている。その為道幅は狭い所が多く車での観光には適していない。観光駐車場が整備されているのでその利用をお勧め。
城下町高梁の三の丸、旧武家屋敷が建ち並ぶ、落ち着いたたたずまいを見せる石火矢町ふるさと村にある。江戸時代中期から後期にかけて120石から150石取りで、近習役や番頭などを勤めた武士の住宅。
備中松山城下三の丸跡に、落ち着いたたたずまいの旧武家屋敷が並ぶ石火矢町にある。160石馬回り役の武士が住んでいた建物で天保年間の建築。白い漆喰壁に太い柱を見せる長屋門が美しい。
藩校有終館は、延享3(1746)年に備中松山藩の学問所として創設、明治4(1871)年の閉校まで多くの人材を育てた。現在は高梁幼稚園となっている。山田方谷もここ有終館で学び後に学頭(校長)を勤めている。
本町の町並み保存地区、紺屋町美観地区の入口に位置し、紺屋町美観地区の景観を代表すると共に、土産物販売や観光案内など高梁市観光の拠点としての機能も併せ持った施設。
高梁市街から高梁大橋を渡り、国道313号線を成羽方面へ行く途中、高梁川に成羽川が合流する付近、阿井の渡しがあった付近に「山中鹿之介墓」と書かれた慰霊碑が建てられている。
面積91ヘクタールの森林リクリエーション施設、新城池を中心に、アカマツ林をはじめ様々な樹木・植物が成育。テントサイト18サイト、バンガローー10人用2棟、5人用5棟―