07/17/2020 / 最終更新日時 : 07/22/2020 桃太郎 郷土記念物 郷土記念物 吉備津の松並木 郷土記念物 吉備津の松並木は、吉備津神社の参道で、旧山陽道から吉備津神社の表参道石段の下まで続いている県下最大級の松並木。郷土記念物には、昭和49年12月18日指定。
07/17/2020 / 最終更新日時 : 07/22/2020 桃太郎 神社 吉備津神社 アジサイ園 吉備津神社回廊の山側、岩山宮参道の両脇斜面には、6月中旬から7月中旬の花季には約1,500株のぼたんが咲き誇る。
07/17/2020 / 最終更新日時 : 07/22/2020 桃太郎 神社 吉備津神社 ボタン園(牡丹園) 吉備津神社ボタン園(牡丹園)では、4月下旬から5月上旬の花季には、長い回廊を背景に約400株のぼたんが咲き誇る。
07/16/2020 / 最終更新日時 : 07/22/2020 桃太郎 県指定重要文化財 吉備津神社 回廊ー岡山県指定重要文化財ー 吉備津神社回廊は、本殿横の南随神門から南の本宮社や御釜殿をつなぐ、総延長398mの歩廊。廻廊建立の棟札が29枚現存しており、現在の姿になったのは戦国時代の天正年間(1573~1591)と推定されている。梁間一間、切妻造、本瓦葺。岡山県指定重要文化財 昭和51年3月27日指定。
07/16/2020 / 最終更新日時 : 07/22/2020 桃太郎 国指定重要文化財 吉備津神社 御釜殿ー国指定重要文化財ー 吉備津神社の御釜殿は、江戸時代初期の慶長17年(1612)に安原備中守知種によって再建されたもので、窯のなる音で吉凶を占う鳴釜神事は、上田秋成の雨月物語「吉備津の釜」などにも紹介され神秘な神事として天下に有名である。国指定重要文化財 昭和55年1月26日指定。
07/15/2020 / 最終更新日時 : 07/22/2020 桃太郎 国指定重要文化財 吉備津神社 南随神門ー国指定重要文化財ー 吉備津神社 南随神門は、本殿から本宮や御釜殿につながる回廊の入口にある正面6.2m 側面3.2m 入母屋造り・本瓦葺三間一戸の八脚門(やつあしもん)。木部は丹塗りで壁は白壁。社記・棟札などから、南北朝時代の延文2(1357)年の再建と言われ、この神社の数多い社殿群の中では最も古い建物である。国指定重要文化財。
07/15/2020 / 最終更新日時 : 07/22/2020 桃太郎 国指定重要文化財 吉備津神社 北随神門ー国指定重要文化財ー 吉備津神社 北随神門は、縁日にはみやげ物店の並ぶ北参道の中ほどに位置する三間一戸、正面7.5m 側面3.9m 入母屋造り・桧皮葺の八脚門。棟札の写しなどから、室町中期(15世紀半ば頃)の再建とされている。木部はすべて丹塗りで、壁は白く塗られている。国指定重要文化財。
07/15/2020 / 最終更新日時 : 07/22/2020 桃太郎 国宝 吉備津神社 拝殿ー国宝ー 吉備津神社拝殿は、本殿と共に応永32年(1425年)の再建。本殿の正面に接続して突き出した切妻造の建物で本殿と共に国宝に指定されている。正面と両側面に裳階を付けている為、外観は重層に見えるが内部は吹き抜けで屋根裏まで見通すことが出来る。
07/15/2020 / 最終更新日時 : 07/22/2020 桃太郎 国宝 吉備津神社 本殿ー国宝ー 吉備津神社の本殿及び拝殿は、応永32年(1425年)に再建。本殿は、比翼入母屋造(ひよくいりもやづくり)または吉備津造とよばれる檜皮葺の入母屋造を二つ前後に連結した独創的様式の大建築で拝殿と共に国宝に指定されている。
07/14/2020 / 最終更新日時 : 07/22/2020 桃太郎 史跡 猿掛城跡 猿掛城築城のはじまりは東国の武将・庄太郎家長がこの地に地頭として赴任した際に当初、幸山城へ入ったが、防禦に不便として、元久2年(1205年)ごろ猿掛山へ新城を築いて移ったことによる。この城は天正10年(1582年)の高松城攻めの際に毛利輝元の本陣となったことでも有名。
07/12/2020 / 最終更新日時 : 07/12/2020 桃太郎 城跡 石鎚神社ー長良山城跡ー 石鎚神社は、長良山城の南の郭跡と言われる所に祀られている。 神社正面には、昭和5年に天皇陛下をお招きして行われた陸軍大演習の記念碑が。 右に福山城跡、幸山城跡、左に鷹ノ巣城跡のある日差山、正面には備中国分寺の背景となっている吉備路風土記の丘を見ることが出来る。
07/12/2020 / 最終更新日時 : 07/12/2020 桃太郎 城跡 八幡宮ー長良山城跡ー 長良山城跡の北の郭跡とされる所には現在八幡宮が祀られている。 ここからは、総社市街や岡山県立大学キャンパス、鬼ノ城跡、福山城跡、幸山城跡などを眺めることが出来る。
07/12/2020 / 最終更新日時 : 07/22/2020 桃太郎 史跡 長良山城跡 長良山城跡は、室町時代初めここ服部郷を治めていた、世瀬川左衛門入道祐隣が、建武年間(1334~1338)に築いた城と伝えられている。高松城水攻めのあった頃の城主は、世瀬川祐隣の子孫で姓を禰屋(ねや)と改めた禰屋親光で、毛利方として参戦している。
07/10/2020 / 最終更新日時 : 07/22/2020 桃太郎 史跡 毛利軍配置状況ー備中高松城水攻めー 羽柴秀吉軍の備中高松城水攻めの際、毛利・羽柴両軍は足守川を挟んで向き合った。毛利軍の配置は、境目(備中)七城を含めて、備中宮路山城跡、備中高松城跡、吉川元春陣跡、天神山陣跡、日差山陣跡、庭瀬城跡、松島城跡などである。
07/10/2020 / 最終更新日時 : 09/19/2020 桃太郎 史跡 羽柴軍配置状況ー備中高松城水攻めー 羽柴秀吉軍の備中高松城水攻めの際、毛利・羽柴両軍は足守川を挟んで向き合った。羽柴秀吉軍の配置は、鍛冶山城、冠山城、加藤清正陣、津田与左衛門陣、宇喜多忠家陣、羽柴秀勝陣、仙石権兵衛陣、羽柴秀吉本陣、堀尾茂助陣、羽柴秀長陣、花房助兵衛陣、加茂城、日幡城などである。
07/09/2020 / 最終更新日時 : 07/22/2020 桃太郎 史跡 境目七城(備中七城)ー備中高松城水攻めー 「境目七城」は別名「備中七城」とも呼ばれ、中国地方の雄毛利氏が織田軍との戦いに備え整備した防衛ラインで、南から松島城・庭瀬城・日幡城・加茂城・高松城・冠山城・宮路山城の七つの城を併せて名付けられた。
07/08/2020 / 最終更新日時 : 07/22/2020 桃太郎 史跡 史跡 舟橋ー備中高松城水攻めー 高松城は平城で三方を堀で囲まれており、南手口には具足の武士がようやくすれちがう程の細い道があった。開戦直前に八反堀を掘り外壕とした。そこへ舟を並べて舟橋(長さ約64m)となし、城内より進攻の際はこれを利用し又、退く時は撤去出来る仕組。
07/08/2020 / 最終更新日時 : 07/22/2020 桃太郎 史跡 仙石権兵衛陣跡ー備中高松城水攻めー 羽柴秀吉の備中高松城水攻めにおいて、後に信濃小諸藩の藩主となる仙石権兵衛秀久陣跡は、羽柴秀吉本陣の石井山の麓近く、堀尾茂助の陣の北側に構えている。上の写真では、正面右中央に見える団地付近がその陣跡ではないかと言われている。
07/07/2020 / 最終更新日時 : 07/22/2020 桃太郎 史跡 花房助兵衛陣跡ー備中高松城水攻めー 備中高松城水攻めで秀吉軍として活躍した花房助兵衛の陣跡(城跡)を探したが、案内図に詳細な表示が無かった為容易に見つけることが出来なかった。ここは、丁度歩いてこられた近くにお住まいの方にお聞きして探し当てた所。
07/07/2020 / 最終更新日時 : 07/22/2020 桃太郎 史跡 冠山城跡ー備中高松城水攻めー 冠山城は羽柴秀吉の備中高松城水攻め時、毛利軍の「境目七城」の一つであった。時の城主は、林三郎左衛門重真、妻は清水宗治の娘。NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」では、この冠山城攻めが官兵衛の長男「黒田長政」の初陣であったと放送された。
07/06/2020 / 最終更新日時 : 07/22/2020 桃太郎 史跡 備中宮路山城跡ー備中高松城水攻めー 備中宮路山城は備中高松城水攻めの際毛利軍の「境目七城」の内の一つで、最も北に位置。黒田官兵衛らが降伏を呼びかけるも小早川隆景の家臣で城将として来ていた乃美元信は応じなかった。隣冠城の陥落後宇喜多家家臣の信原氏が開城を勧めついに開城した。
07/06/2020 / 最終更新日時 : 07/22/2020 桃太郎 史跡 備中鍛冶山城跡ー備中高松城水攻めー 備中鍛冶山城は高松城水攻めの際、毛利氏の最前線「境目七城」の一つ宮路山城とは足守川を挟んで対岸にある城で、宇喜多氏側の延原(信原)氏が城主であったといわれている。当時宇喜多氏は織田方に寝返っており織田軍の最前線の城であったことになる。
07/05/2020 / 最終更新日時 : 07/22/2020 桃太郎 史跡 日幡城跡ー高松城水攻めー 日幡城は、羽柴秀吉の備中高松城水攻めの際、中国地方の雄毛利氏が織田軍との戦いに備え整備した防衛ライン「備中七城」(庭瀬城・松島城・日幡城・加茂城・高松城・冠山城・宮路山城)の一つ。
07/04/2020 / 最終更新日時 : 07/22/2020 桃太郎 史跡 羽柴秀勝陣跡ー岡之鼻ー高松城水攻めー 岡之鼻という小さな丘の上に立てた羽柴秀勝の陣。秀勝は織田信長の四男で羽柴秀吉の養子となっていた。この高松城水攻めは、羽柴秀勝にとっての初陣。天正10(1582)年10月15日には、大徳寺において喪主となって実父信長の葬儀を行っている。
07/04/2020 / 最終更新日時 : 07/22/2020 桃太郎 史跡 加茂城二の丸跡ー備中高松城水攻めー 加茂城は天正10(1582)年の羽柴秀吉の備中攻略ー備中高松城水攻めーに際し毛利方が備中南東部の国境沿いに備えた「境目七城」のひとつで、桂広繁・上山元忠・生石治家が立て籠りましたが、秀吉軍の攻撃にあって城中で内紛が起き、ついに落城したと伝えられます。
07/03/2020 / 最終更新日時 : 07/22/2020 桃太郎 史跡 天神山陣跡ー備中高松城水攻めー 天神山陣跡は、備中高松城水攻めにおいて、毛利軍小早川勢の小田孫兵衛、細川兵部、杉原播磨守らが陣を張ったとされる所。備中高松城へは、花房助兵衛の陣、吉川元春の陣に次いで近い所に位置する。
07/02/2020 / 最終更新日時 : 07/22/2020 桃太郎 史跡 松島城跡ー備中高松城水攻めー 松島城は備中高松城水攻め時における毛利軍「境目七城」の一つであったが高松城からは遠く水攻めの時は、秀吉軍に攻撃される事無く織田方と毛利方の和睦となった。現在、川崎医療短期大学の敷地となっているあたりが松島城跡とされている。
06/30/2020 / 最終更新日時 : 06/30/2020 桃太郎 史跡 両児神社(ふたごじんじゃ)ー松島ー ここ両児(ふたご)神社は、約1,800年前、神功皇后が三韓征伐の帰り、戦勝と、筑前国譽田の宮にて誕生した二歳の皇子の安泰を祈願された二子の宮ー当時は高鳥居山(ここから数キロ北)に鎮座ーを約1,200年前称徳天皇の時代に遷座した神社。
06/29/2020 / 最終更新日時 : 07/22/2020 桃太郎 史跡 羽柴秀長陣跡ー鼓山ー備中高松城水攻めー 羽柴秀吉の弟秀長が陣を張った所ー高松城水攻関連史跡・皷山陣所跡・つづみ山城跡(海抜118m)ー天正10(1582)年4月 織田信長の命により備中へ進攻した秀吉の左翼をかためる弟・羽柴秀長が山陽道からの毛利軍に対して布陣した所である。
06/25/2020 / 最終更新日時 : 06/29/2020 桃太郎 史跡 藤田伝八郎の墓ー本能寺の変の密書を持った密使ー 6月3日未明 本能寺の変を毛利方へ伝えんとした明智の臣・藤田伝八郎が秀吉の弟羽柴秀長の陣付近で捕えられた。この使者から情報が漏れることを恐れた秀吉軍は伝八郎を殺害してしまった。
06/24/2020 / 最終更新日時 : 06/25/2020 桃太郎 史跡 高松城水攻築堤趾ーJR桃太郎線足守駅南ー この高松城水攻築堤趾は現在良く知られている蛙が鼻にある築堤趾ではなく、JR桃太郎線足守駅前にある築堤趾で、足守駅の東にある同線踏切の南50m程の堤防上から見ることが出来る。
06/21/2020 / 最終更新日時 : 07/22/2020 桃太郎 史跡 津田与左衛門陣跡ー小山ー備中高松城水攻めー 津田与左衛門陣跡は加藤清正陣と宇喜多忠家陣の間にある。今は陣の南端部をかすめてJR吉備線が走っている。
06/21/2020 / 最終更新日時 : 07/22/2020 桃太郎 史跡 副堤の北端ー備中高松城水攻めー 備中高松城水攻め時に足守川堰き止めの為に築いた副堤の北端ー天正10(1582)年5月、羽柴(豊臣)秀吉は、高松城水攻めに際し、この付近からJR吉備線足守駅南まで全長約400mの副堤を築いたと伝えられ、この地はその北端にあたる。
06/20/2020 / 最終更新日時 : 07/22/2020 桃太郎 史跡 水取り入れ口遺跡ー備中高松城水攻めー 備中高松城水攻め時の水攻め用水取り入れ口遺跡は、天正10(1582)年5月、羽柴(豊臣)秀吉が高松城水攻めの際、足守川のこの付近を堰止め、蛙ヶ鼻までの約3㎞の堤防を築き水を引き入れた場所と伝えられる。
06/20/2020 / 最終更新日時 : 06/20/2020 桃太郎 仏閣ー寺院ー 蓬莱山 報恩禅寺 蓬莱山 報恩禅寺は、かって加藤清正陣跡の山の上にあったが、その後この位置に移転したとされている。また、参道左側には文英の銘が刻まれた文英石仏と呼ばれる吉備地域固有の石仏が祀られている。
06/19/2020 / 最終更新日時 : 06/24/2020 桃太郎 史跡 生石神社 生石神社ー祭神 主神ー応神天皇 神功皇后 玉依媛命 今から1200~1300年も前からこの地区の氏神様であった。奈良時代の神名帳にも残されている。社殿は南北朝末期頃建てられた。
06/19/2020 / 最終更新日時 : 07/22/2020 桃太郎 史跡 加藤清正陣跡ー報恩寺山ー備中高松城水攻めー 備中高松城水攻め時、生石神社のある報恩寺山に加藤清正が陣を構えた。西脇には足守川が流れている。水攻めにあたり川向こうに400m程の副堤を築き、陣前付近を水攻めの水取り口とし足守川を閉鎖、備中高松城を孤立させた。
06/18/2020 / 最終更新日時 : 07/22/2020 桃太郎 史跡 吉川元春陣跡ー庚申山ー 戦国時代この庚申山には、積善寺という多くの堂塔僧房をもち、楼門を構えた大寺があったが天正10(1582)年高松城水攻の時、毛利の勇将吉川元春がここを陣所としたため、その兵火によってことごとく焼失したと伝えられている。
06/14/2020 / 最終更新日時 : 07/22/2020 桃太郎 仏閣ー寺院ー 小早川隆景陣所跡ー日差山ー 日差山は羽柴秀吉による備中高松城水攻め時、尾根続きにある鷹ノ巣城跡と共に小早川隆景が陣所を張った所として知られている。日差山山頂下の日差山寺(祭神ー毘沙門天)近くには駐車場があり、ここまでは車で登ることができる。
06/11/2020 / 最終更新日時 : 07/22/2020 桃太郎 史跡 宇喜多忠家陣跡ー八幡山ー 備中高松城水攻めの際、織田方に付いた宇喜多秀家の叔父、宇喜多忠家(直家の弟)が陣を張った八幡山。現在は、八幡神社が鎮座している。備中高松城跡や羽柴秀吉陣跡方面の眺望に優れている。
06/11/2020 / 最終更新日時 : 07/22/2020 桃太郎 史跡 ごうやぶ遺跡 備中高松城 三の丸総門のわきにあり、1582年6月4日死出の宗治等の舟を追うて宗治の僕、七郎二郎と月清の馬の口取興十郎とが「一足先に三途の川でお待ち申します」と互いに差し違えた所。
06/11/2020 / 最終更新日時 : 07/22/2020 桃太郎 史跡 清水宗治の胴塚 天正10年(1582)6月4日、秀吉軍の水攻めに会い自決した高松城主、清水宗治公の首級なき胴体遺体は舟上のまま本丸に帰ってきた。迎える家臣、身内の者共、抑えきれぬ涙に感極まって一同の嗚咽がおこった。やがて回向の声に包まれ、池の下丸、この地に手厚く葬られた。
04/21/2020 / 最終更新日時 : 04/23/2020 桃太郎 仏閣ー寺院ー 高松山 妙玄寺(こうしょうざん みょうげんじ) 高松山 妙玄寺は、慶長5年(1600年)、領主 花房職之公により花房家の菩提寺として建立された寺で最上稲荷の高松城支院である。境内には宗治公自刃の地として建立された元高松城主清水宗治公の供養塔がある。
04/21/2020 / 最終更新日時 : 04/23/2020 桃太郎 史跡 清水宗治自刃の地 天正10年(1582年)年6月4日、秀吉の用意した小舟に乗り込み、舞を舞った後に「浮世をば 今こそ渡れ武士の名を 高松の苔に残して」と辞世の句を詠み切腹をした清水宗治。その自刃の地は高松城の東、高松山 妙玄寺境内にある。
04/19/2020 / 最終更新日時 : 07/09/2020 桃太郎 史跡 備中高松城跡 備中高松城は、備前国に通じる平野の中心、松山往来沿いの要衝の地にあり、天正10(1582)年、中国の役の主戦場となった城跡で、羽柴秀吉により水攻めをされ、城主清水宗治公が家来達の助命を願って切腹した城として有名である。
04/18/2020 / 最終更新日時 : 04/23/2020 桃太郎 史跡 清水宗治公首塚 高松城水攻めにより自刃した清水宗治公の首級は、秀吉の本陣にて首実検、本陣脇に葬られ五輪塔が建立されたといわれている。その後、地元の人々により公の顕彰へと進展、明治42年にここ備中高松城本丸跡へ首塚の移築がなされた。
04/17/2020 / 最終更新日時 : 04/23/2020 桃太郎 博物館・資料館 高松城址公園資料館 高松城址公園資料館は、備中高松城址内にある歴史資料館で、織田信長の命により羽柴秀吉が備中高松城水攻めをした際の資料を中心に展示すると共に、ボランティア活動の拠点にもなっている。
04/17/2020 / 最終更新日時 : 04/23/2020 桃太郎 史跡 宗治蓮 宗治蓮は、岡山市が昭和57年に備中高松城跡を歴史公園として造成するにあたり、本丸と二の丸との間にある蓮池と呼ばれている所の沼を復元した際、その沼に自然に蓮が生えてきた蓮に名付けられた名前。
04/14/2020 / 最終更新日時 : 06/11/2020 桃太郎 史跡 蛙が鼻築堤跡 蛙が鼻築堤跡は、羽柴秀吉が備中高松城を水攻めするにあたり、城地の南東約700mの山根ー蛙ケ鼻(かわずがはな)-から西北西約1,500mの足守川上流まで築いた約3㎞の堤防で、わずか12日間で築いたと伝えられている。
04/14/2020 / 最終更新日時 : 04/23/2020 桃太郎 史跡 水攻め築堤跡(ちくていあと)の調査 平成10年(1998年)の4月から5月にかけて、水攻め築堤の遺構状況を確認するため、発掘調査が行われました。その結果、築堤の大半はすでに削り取られていたものの、現在の水田の下約1mのところで、基底部(きていぶ)が確認された。
04/12/2020 / 最終更新日時 : 04/23/2020 桃太郎 史跡 高松城水攻め史跡公園 高松城水攻め史跡公園は、天正10年(1582年)中国の役で、羽柴(後に豊臣)秀吉が備中高松城の水攻めの際築いたと伝わる築堤史跡、蛙が鼻築堤跡(昭和4年12月17日国指定史跡)に隣接して整備した公園(面積約4,000㎡)。
04/02/2020 / 最終更新日時 : 04/23/2020 桃太郎 仏閣ー寺院ー 経王山 寺宝院 観世音石仏 ここ寺宝院をはじめ高松地区内の各所には、自然石の平坦面に刻線彫を主体に一部半肉彫を用いた素朴な表現の観世音石仏が分布している。同様の石仏は、北は岡山市北区山上、東は赤磐市にも認められ、地域独特の石仏。
04/02/2020 / 最終更新日時 : 06/11/2020 桃太郎 史跡 御崎神社 御崎神社は、旧立田村の村社で、祭神は「吉備武彦(きびたけひこ)の命」、創建は弘治年間(1555~1558)。天正10年(1582年)高松の役のとき、この御崎神社は、秀吉配下の掘尾茂助の陣となった。
03/28/2020 / 最終更新日時 : 06/11/2020 桃太郎 史跡 太閤岩ー備中高松城水攻めー この「太閤岩」は、天正10年(1582年)に羽柴(豊臣)秀吉が織田信長の命により、毛利方の清水宗治が守る備中高松城を攻めた時、作戦上の目標物として活用したのではないかと言われている。
03/28/2020 / 最終更新日時 : 07/22/2020 桃太郎 史跡 羽柴秀吉本陣跡ー備中高松城水攻めー 羽柴秀吉が高松城水攻めをするにあたり本陣を構えた場所で当時の石井山持寶院境内跡である。天正10(1582)年6月4日、講和の条件として自刃した清水宗治公の首級は、この本陣に於いて、秀吉の首実検の後手厚く葬られ五輪塔が建立されたといわれている。
03/26/2020 / 最終更新日時 : 03/26/2020 桃太郎 花の見所ーサクラー 百間川せせらぎ広場 百間川せせらぎ広場は、百間川分琉部、一の荒手脇にある親水公園。旭川から引き入れた水流のせせらぎを利用した水遊び場の周りに芝生広場を造ると共に桜の植樹などを行い、春は花見、夏は桜の木陰で子供たちが水遊びが出来るようになっている。
03/26/2020 / 最終更新日時 : 03/26/2020 桃太郎 世界かんがい施設遺産 百間川一の荒手改築 現地説明会 国土交通省岡山河川事務所主催、百間川一の荒手改築工事の現地説明会。2017年12月24日開催。「一の荒手」は、旭川の増水時その流れを百間川放水路に逃し岡山城下を洪水から守るために江戸時代に設けられた治水施設。
03/25/2020 / 最終更新日時 : 03/26/2020 桃太郎 世界かんがい施設遺産 百間川一の荒手 亀の甲(巻石) 一の荒手は越流部と、その両端にある亀の甲の形をした「巻石」と呼ばれる曲面で構成される石積み石造構造物から出来ている。「巻石」を角や直線の無い曲面状の石積みとすることにより水の抵抗を少なくして受け流すことができ背割堤端部の崩壊を防ぐには最適の構造となっている。
03/21/2020 / 最終更新日時 : 11/02/2020 桃太郎 町並み保存地区 玉島市街 玉島はかって吉備の穴海と呼ばれる浅い海の西端部にある乙島、柏島等とその他小さな島々との集まりであった。江戸時代になって新田開発が行われ、北前船と高梁川を利用した高瀬舟の往来で栄えた。新田開発に伴い、柏島から乙島の北にあった小さな島阿弥陀島をむすんで堤防が造られその堤防上に町並みが造られた。今も新町通りとして当時の面影を残し、県の町並み保存地区に指定されている。
03/21/2020 / 最終更新日時 : 03/21/2020 桃太郎 花の見所ーサクラー 曹源寺の枝垂れ桜が今満開! Sponsored Link 2020年3月21日現在の岡山藩池田家菩提寺 曹源寺の枝垂れ桜開花状況です。すでに満開! ここ2~3年程の間は、樹勢が衰えて上の方の枝には殆んど花が咲いていませんでした。 施肥などの樹勢回復 […]
03/13/2020 / 最終更新日時 : 03/14/2020 桃太郎 世界かんがい施設遺産 百間川の果たした役割 百間川は岡山城下の防災だけでなく、基幹的な排水施設として新田開発にも大きな役割を果たした。この歴史的功績から、平成27年に日本土木学会選奨土木遺産に、令和元年には世界かんがい施設遺産に登録されている。
03/12/2020 / 最終更新日時 : 03/17/2020 桃太郎 世界かんがい施設遺産 百間川河口水門 百間川河水門は、岡山城下を旭川の洪水から守ると共に新田開発の灌漑用水としても利用する為に造られた放水路(百間川)河口に設けられた水門。ゲート操作により満潮・高潮時には閉鎖して児島湾からの海水の流入を防ぎ、干潮時・洪水時には開放して百間川の流水を円滑に流下させる役割を果たす。
03/12/2020 / 最終更新日時 : 03/14/2020 桃太郎 史跡 金蔵山古墳第6次調査トレンチ10~12 2019年度の金蔵山古墳第6次発掘調査では前方部の分頂部をその主軸にほぼ沿った4ヶ所のトレンチで調査をしている。最も円墳側のトレンチ10では前方部の鞍部に溝状のくぼみがあり後につくられた城郭の堀切遺構が検出されたと記載されている。
03/10/2020 / 最終更新日時 : 03/14/2020 桃太郎 史跡 金蔵山古墳第6次調査出土埴輪 操山丘陵にある金蔵山古墳の第6次調査(2019年度)で前方部下段平坦面で検出された埴輪列。説明資料によると第2段斜面の葺石は基底石近くの構造は失われているが大半は残存しており、また、葺石と埴輪列との間には円礫堆が認められると記載されている。
03/10/2020 / 最終更新日時 : 03/11/2020 桃太郎 歴史的建造物 百間川河口水門建設の歴史ー平成ー 旭川水系はん濫域への資産集中等を考慮、平成4年に百閒川流入計画高流量を2,000㎥/Sに修正。河口水門の流下能力向上を目指して平成13年から水門を増築することになり13年の歳月と130億円余を投じ水門増築事業が平成27年に竣工した。
03/10/2020 / 最終更新日時 : 03/11/2020 桃太郎 歴史的建造物 百間川河口水門建設の歴史ー昭和ー 昭和9年室戸台風で岡山市街中心に大洪水発生の為、百間川流入計画高水流量を1,000㎥/Sから1,200㎥/Sに変更。昭和38年から河口水門改修を行い、5年の歳月と14億円余りを投じて、昭和43年に竣工した。
03/10/2020 / 最終更新日時 : 03/11/2020 桃太郎 史跡 百間川河口水門建設の歴史ー江戸から明治ー 岡山藩士津田永忠は、操山南に広がる浅瀬で新田開発に併せて旭川放水路、百間川を築造、河口には洪水調節や潮止め対策としての水門を整備、その水門は築造後から現水門が出来る昭和43年まで機能してきた。
03/09/2020 / 最終更新日時 : 03/11/2020 桃太郎 史跡 百間川河口水門改修記念碑ー明治時代ー 百間川河口水門の改修記念碑。元禄時代、岡山藩による新田開発時に設けられた水門が老朽化した為、当時、岡山県上道郡の人々の要請により水門の改修工事がなされ、その完成を記念して建立された。明治25年5月完成。
03/09/2020 / 最終更新日時 : 03/11/2020 桃太郎 史跡 百間川河口水門遺構ー江戸時代建設ー この水門遺構は江戸時代に建設され昭和43年まで百間川河口で使用された水門の一部。昭和38年から5年の歳月をかけて水門の改修工事が行われ昭和43年に完成した為その役割を終えここに保存されている。
03/08/2020 / 最終更新日時 : 03/11/2020 桃太郎 JR駅 ブランチ岡山北永瀬 「ブランチ岡山北長瀬」は岡山市のJR山陽本線北長瀬駅前にある複合商業施設。「ブランチ」は、「つどう、つながる、ひろがる」をコンセプトに、食品スーパー、ドラッグストア、カフェ、専門店などの店舗に加えて体験型施設や交流スペースを併設しているのが特徴で全国展開中。
03/08/2020 / 最終更新日時 : 03/08/2020 桃太郎 図書館 高梁市立図書館 図書館というと行政が運営するケースがほとんどだが、近年民間にその設計や運営を委託するという新しい試みの図書館が出現しつつある。ここ高梁市の図書館もその一つで、蔦屋書店のを展開するカルチュア・コンビニエンス・クラブ(CCC)に委託しており、図書館には蔦屋書店、スターバックス、高梁市観光案内所などを併設している。
03/05/2020 / 最終更新日時 : 03/05/2020 桃太郎 碑(文学碑等) かき養殖の父猪又俊雄先生顕彰碑 かき養殖の父として地元虫明の人達から敬慕された猪又俊雄先生の顕彰碑。先生は大正15年1月、虫明湾のほとりにある裳掛尋常高等小学校の教師として新潟県から赴任、実業補習学校の専任となってからは、冬季の漁業の閑散期対策としてかきやアサリの養殖を提案、当時の最新技術を駆使して実践指導に当たった。
03/05/2020 / 最終更新日時 : 03/05/2020 桃太郎 岡山県の港 かき養殖基地 虫明港 Sponsored Link ここ瀬戸内市邑久町虫明の虫明港は、周辺瀬戸内海でのかき筏養殖の基地として、牡蠣打ちの作業所をはじめ様々の関連産業が集積している。 虫明におけるカキ養殖は、1926年(大正15年)に新潟から当 […]
03/03/2020 / 最終更新日時 : 03/04/2020 桃太郎 キャンプ場 蒜山塩釜キャンピングヴィレッジ 旭川水系の源流の一つ塩釜冷泉のすぐそばにあるキャンプ場で、中蒜山への登山口がすぐ近くにあり蒜山登山の基地として便利。AからDまでの4つのキャンプサイト、5つのテントスタイルを持ったキャンピングヴィレッジ。
02/29/2020 / 最終更新日時 : 02/29/2020 桃太郎 史跡 長島愛生園 目白寮跡 ここにはかって明石海人が入居していた目白寮があった。明石海人は1932年(昭和7年)、明石楽生病院の閉鎖に伴って愛生園へ入園、当初は精神失調の状態であったが、それが回復するや短歌に詩に散文に多彩で密度のある創作を始めた。
02/29/2020 / 最終更新日時 : 02/29/2020 桃太郎 史跡 長島愛生園 犠霊碑 この儀霊碑は、入所者の給食に供給された家畜の霊を慰めるために建てられたもので、碑には「皇紀二千六百五年」との記載があることから1945年(昭和20年)の建造と思われる。養豚事業は、1931年(昭和6年)の開園時より始められたが入所者の高齢化で運営が難しくなり、1985年(昭和60年)に閉鎖。
02/28/2020 / 最終更新日時 : 02/29/2020 桃太郎 史跡 長島愛生園 監房跡 1931年(昭和6年)~1953年(昭和28年)、外壁:高さ3メートル、部屋:独房8室(監禁室板間4.5畳6室、謹慎室畳敷き4.5畳2室)監房は開園と同時に建設され、風紀を乱した者、逃走又は逃走しようとした者、秩序を害し又は害そうとした者を中心に収監した。当時、逃走(無断外出)で収監された者が一番多かった。
02/24/2020 / 最終更新日時 : 02/28/2020 桃太郎 史跡 長島愛生園 収容所 この建物ー収容所ーは長島愛生園に隔離された入所者が、体の検診、病歴調査、その他の入所手続きを受ける為に最初の約1週間を過ごす場所で、1930年(昭和5年)9月の建設。当初は収容所と呼ばれていたが昭和27年以降は回春寮と呼ばれた。
02/23/2020 / 最終更新日時 : 02/28/2020 桃太郎 博物館・資料館 長島愛生園歴史館 長島愛生園歴史館には、ハンセン病の歴史や日本初の国立のハンセン病療養所として誕生した長島愛生園での出来事、入所者の営みを分かりやすく展示している。
02/23/2020 / 最終更新日時 : 02/28/2020 桃太郎 史跡 収容桟橋 1931年(昭和6年)から昭和30年代半ばにかけて、長島愛生園に収容される人の多くは、故郷に別れを告げると一般の乗客とは区別された患者専用列車で岡山駅まで運ばれた後、虫明港までは護送車と呼ばれた車で移送、この内白間(うちしらま)から上陸した。
02/23/2020 / 最終更新日時 : 02/29/2020 桃太郎 博物館・資料館 国立療養所長島愛生園 長島愛生園は、岡山県瀬戸内市沖の瀬戸内海に浮かぶ島長島(瀬戸内市虫明)に位置する国立ハンセン病療養所で、1930年に日本初の国立らい療養所として発足したのが始まり。当時、感染症であるハンセン病はその有効な治療法が無かった為、国の施策としてこのような島に設けられた療養所への隔離が行われた。
01/13/2020 / 最終更新日時 : 01/20/2020 桃太郎 ジオサイト候補地 吉備層群周匝層と舞鶴層ー吉井グラウンドー 赤磐市吉井B&G海洋センターの下にある野球場ー吉井グラウンドー脇の斜面には、周匝層ー今から約3,400万年前にアジア大陸を流れていた河川と谷が大量の礫と砂によって埋め立てられてできた地層ーの崖錘性堆積物と基盤岩ー舞鶴層ーとの境界が確認でき、赤磐市周匝にある地球史研究所を中核施設としたジオパーク構想でジオサイト候補地の一つとされている。
01/07/2020 / 最終更新日時 : 01/07/2020 桃太郎 展望の良い所 水島コンビナートー鷲羽山スカイライン水島展望台よりー 水島と児島の両地区を結ぶ鷲羽山スカイライン(県道鷲羽山公園線ー延長18.5km)の水島展望台から望む水島コンビナート。ここから見える水島コンビナートの夜景は素晴らしく「日本夜景遺産」(日本夜景遺産事務局指定)に選定されている。
01/06/2020 / 最終更新日時 : 03/05/2020 桃太郎 グルメ 虫明牡蠣打ち作業所 岡山県内では瀬戸内市邑久町から備前市日生沖にかけての瀬戸内海で養殖のイカダを多く見ることが出来る。養殖された牡蠣は、虫明湾岸にある牡蠣むきの作業所へ行けば、水揚げしたばかりの新鮮な牡蠣を殻の付いたままあるいはむき身の状態で購入することが出来る。
01/05/2020 / 最終更新日時 : 01/05/2020 桃太郎 神社 岡山県護国神社 岡山県護国神社は、備前藩主 池田章政公が明治2年4月3日に御後園(後楽園)裏の竹田河原に於いて、戊辰の役戦死者34柱の招魂祭を執行せしめられ、次いで同年6月岡山市東山公園内に社殿と碑石を建て奥羽、函館両戦争戦死者55柱を祭祀されたのを起源とする。
01/05/2020 / 最終更新日時 : 01/05/2020 桃太郎 仏閣ー寺院ー 盛徳院 臨済宗妙心寺派の禅寺。元禄12(1699)年約300年前の建立。池田恒元公(備前藩主池田光政公弟)播磨(兵庫県)山崎藩主とその一族の菩提の寺で恒元公の法号が盛徳院殿でそれが寺名とされた。境内地一千坪、静寂で幽玄である。
01/05/2020 / 最終更新日時 : 01/20/2020 桃太郎 ジオサイト候補地 古第三紀吉備層群周匝層 ここ赤磐市周匝にある吉井B&G海洋センター多目的広場の法面には、今から約3,400万年前にアジア大陸を流れていた河川と谷が大量の礫と砂によって埋め立てられてできた地層が露出している。よく見ると河原に見られる丸みを帯びたこぶし大から人の頭を越える大きさまで様々の大きさの礫が露出し、或いは転がっている。
01/04/2020 / 最終更新日時 : 01/20/2020 桃太郎 ジオサイト候補地 苦木の瀬ー河(高)ノ瀬ー 苦木の瀬は、吉井川を高瀬舟で往来していた時代の難所で別名河ノ瀬(こうのせ)とも呼ばれていた所で、この場所を安全に下るため、明治14(1881)年から16年の歳月をかけて長さ116メートル、幅10メートル程度の舟通しを築いた石堤跡がある。
01/02/2020 / 最終更新日時 : 01/20/2020 桃太郎 ジオサイト候補地 岩神神社ーゆるぎ岩ー 岩神神社の御神体である巨岩群の一つで、長さ約5mの舟形の岩が台石と一点で接し支えられ、揺り動かすことができる。このことから、ゆるぎ岩と呼ばれている。花崗岩が節理にそって割れ風化して生じたもので、自然の造形による。一帯は花崗岩地帯であり、この岩に特有な風化状態を示す代表的なものである。
11/07/2018 / 最終更新日時 : 01/10/2020 桃太郎 展望の良い所 大平山ー吉備路ー 岡山市の北西部、吉備路と呼ばれるエリアにある平たくなだらかな丘を形成した山。山頂が牧場跡となっており平たい形状をしている為、周辺の各ポイントから見付け易く、また山頂からの眺望も優れている。特に、備中高松城跡と水攻めの際の毛利、豊臣各軍の配陣跡をはじめとする吉備路の歴史ポイントを眺めるには最適。
11/05/2018 / 最終更新日時 : 11/12/2018 桃太郎 旅日記 問屋町テラス 問屋町テラスは、岡山市問屋町エリアのほぼ真ん中、協同組合岡山県卸センター、オレンジホール跡地に誕生した複合商業施設。住宅展示場9棟と商業テナント13店が入っており、問屋町の真ん中からお客様のライフステージをテラス(=照らす)、「日々の幸せの瞬間」と「住まい」を身近に体感できる施設。
11/03/2018 / 最終更新日時 : 11/03/2018 桃太郎 市町村指定重要文化財 流鏑馬ー吉備津彦神社ー 流鏑馬(やぶさめ)は、吉備津彦神社の秋季例大祭で披露される神事。室町時代の1342年には始まっていたとされ、風水害を防ぐため、神社前の神池に浮かぶ、水の神「亀島」と風の神「鶴島」の方角に向かって矢が射られる。岡山市指定重要無形民俗文化財。
11/02/2018 / 最終更新日時 : 11/02/2018 桃太郎 岡山県の港 クルーズ客船ースター・レジェンド 玉野市宇野港の大型客船バースへのクルーズ船の入港が増えてきています。クルーズ船が入港すると寄港船歓迎のおもてなしやマルシェーUNOICHIーが開催され多くの人々で賑わいます。秋晴れの10月には、宇野港には初寄港のスター・レジェンドが来航し、岡山県知事、玉野市長出席による歓迎式典も開催されました。
11/01/2018 / 最終更新日時 : 11/01/2018 桃太郎 行事・イベント 秋のおかやま桃太郎まつり 秋のおかやま桃太郎まつりでは、宇喜多秀家と豪姫を中心として、戦国宇喜多の家臣に扮した市民達による行列が、西大寺町を始発点として表町商店街、石山公園を通り、岡山城まで行進しました。また、岡山城では、備州岡山城鉄砲隊による演武をはじめ様々の催しが行われました。
08/24/2018 / 最終更新日時 : 08/24/2018 桃太郎 行事・イベント うらじゃーおかやま桃太郎まつりー うらじゃは、おかやま桃太郎まつりのメインイベントとして岡山市中心部で開催。吉備の国に古くから伝わる鬼神「温羅」をイメージした奇抜なメークと衣装の踊り手たちが、うらじゃの原曲かうらじゃのメロディを含んだオリジナル曲に合わせ、各チーム独特の振り付けで、パレードや演舞場で踊りを行い祭りを盛り上げる。
08/23/2018 / 最終更新日時 : 08/23/2018 桃太郎 旅日記 桃太郎像ー岡山駅東口広場ー 桃太郎伝説の地岡山、そのJR岡山駅東口広場に設けられた桃太郎像。犬、猿、キジを引き連れた桃太郎の凛々しい像の台座の周囲は腰掛けることが出来るようになっていて、休憩や待ち合わせの場所として人気がある。岡山駅前から城下方面に延びる桃太郎大通りには、桃太郎、犬、猿、キジの愛らしい彫刻が点在している。これらの像を探しながら大通りを散策するのも楽しいものだ。
08/22/2018 / 最終更新日時 : 08/22/2018 桃太郎 グルメ きびだんご おとぎ話、桃太郎の鬼退治の中で、桃太郎がキビを主原料にした団子を犬、猿、キジに与えたことは良く知られている。現在の「きびだんご」は、廣瀬屋の隠居武田半蔵(廣栄堂の先代)ら三人が、もち米を主原料とし上白糖と水飴を混ぜて柔らかい求肥にし、風味付けにキビ粉を加えて造った「きびだんご」を、安政3年(1856)廣栄堂の初代浅次郎が、岡山藩家老伊木三猿斎の指導を受けながら茶席向けに改良したことに始まる。
08/20/2018 / 最終更新日時 : 08/21/2018 桃太郎 神社 青陵神社 温羅とその妻の首を石棺を造って鄭重に埋葬し直したといわれる地に建てられた神社。吉備津彦命が鬼ノ城の温羅を退治した時、当初温羅とその妻の首を谷万成の岡の辻と首部の坊主山に埋葬した。しかし、坊主山から毎夜呻き声が聞こえ安眠出来なかったので二人の首を掘り起こしてこの地に埋め直すと呻き声は消えこの地に豊年が続いたと言われている。
08/20/2018 / 最終更新日時 : 08/20/2018 桃太郎 城跡 小丸山 小丸山は従来、周囲に周濠を廻らしている前方後円墳と言い伝えられてきましたが、平成3年の岡山市教育委員会の調査では、古墳説を裏付ける資料は発見されませんでした。 しかしながら、形状等から中世の城砦(辛川城の支城とも)である […]
08/20/2018 / 最終更新日時 : 08/21/2018 桃太郎 神社 艮御崎神社 吉備津神社の北東(鬼門)に当たる小丸山の山頂に鎮座。桃太郎伝説の鬼ー温羅ーの胴体を祀ったとの伝説がある神社。ちなみに温羅の頭部は首部(こうべ)の白山神社に埋められた後、吉備津神社の御釜殿に埋められ、祀られている。